さっちゃんこ・んな日々

日々の出来事、感じた事を思うままに綴っています。

ビーパップ!ハイスクール 世にも異形な仏像たち

 


世にも異形な仏像たち (1)~(3)

仰天!異形たるゆえんが明らかに!

気高く優美な姿で人々を魅了する仏像たち、その中にはひときわ異彩を放つ異形がある。


異形の仏像(1)
生木地蔵(いききじぞう)
生木地蔵1
大きさ:1.5m
香川県観音寺市
樹齢1200年の大クスノキの幹の中に彫られている。
足元が木と一体化しているため、年々身長が伸びつづけ、くり抜かれた穴は年々徐々にふさがってきている。

なぜこのようなお地蔵様が彫られたのか?

今から180年前、森安利左右衛門という男。
利左右衛門が地蔵菩薩に込めた願いとは・・・。
それは、1人娘ナヲの病気平癒。
娘の長寿を願い、生きた木に地蔵菩薩を彫ったのだ。
1日中般若心経を唱えながら、彫り続けた利右左衛門。
その思いが届き、病状は回復しナヲは100才の天寿を全うした。
以来、延命長寿のご利益があるとされ多くの信仰を集めてる。

 

異形の仏像(2)
神仏習合を示す妙見菩薩
妙見菩薩1
東京都稲城市よみうりランド/聖地公園

ヘッドフォンのような物を頭につけ

左手はピースサイン

 なぜこのような姿をしているのか?
この仏像にまつわる言い伝えが残されている。


時は平安時代
伊勢神宮で働く神官の娘が、川で流されてしまった。人々が娘の遺体を探していると、川底からこの仏像が発見された。

ヘッドフォンのように見えるのは、美豆良(みずら)と言い日本古来の髪型。
古事記に登場する髪型と同じで神道のモチーフの1つ。
ピースサインは刀印と言って仏教における仏のサイン。

つまりその仏像が示しているのは神仏道がともに信仰されていたという事。

奈良時代に伝わった仏教平安時代にはすでに神道と融合し信仰されていたという証拠。
こうした神仏習合を示す妙見菩薩は日本に、この1体しか残されていないと言われている。

異形の仏像には知られざるドラマが隠されている。
全国の個性的な仏像を訪ね、知られざる魅力を発掘しているのは、神仏ライターの本田不二雄さん。
仏像に秘められた数々の謎を解明した著書は大きな話題になっている。

仏像はお姿そのものがメッセージ。
珍しい姿になっている像は、なぜその姿になっているかという理由が必ず隠されている。

異形の仏像(3)
東京大円寺 とろけ地蔵

とろけ地蔵

 海の中から発見され、その後何度も大火事にあい変形したと言われています。
どんな悩みも溶かしてくれると多くの人の信仰を集めています。

 


さあ!
 関西世にも異形な仏像ランキングです!

第6位からーー!

第6位 顔が怖すぎる像
奈良 東大寺 賓頭盧尊者像(びんづるそんじゃぞう)
賓頭盧尊者像

表面が剥がれ溶け出したかのような形相
大仏殿の外に祀られている。

賓頭盧尊者とは釈迦の弟子の1人。
大臣の子に生まれ医者をしていたが、釈迦の教えに心を打たれて弟子となった。
神通力を持ち説法にも優れていたため、弟子の中でも特に優秀な16人、十六羅漢に選ばれるほどだった。

だが、ある日事件が起きたのだ。

「神通力ある者はこれを取れ!」
とある行者が木鉢を竿の先につけ、高く掲げこう言った。

名だたる行者がみんな失敗するなか、賓頭盧尊者だけが成功し木鉢を手に取る事ができたのだ。
見事な神通力にみんな大喜び。
だが釈迦だけは激怒した。

「神通力で凡俗の歓心を買うなど修行者のすべきことではない!汝は我に従う事も涅槃に入ることもできぬ!」

以来、賓頭盧(びんづる)は死ぬことも許されず、仏法を説き続ける存在となった。
こうした経緯から日本全国の賓頭盧様は本堂の外に祀られているのだ。

その後説法の見事さから民衆に慕われた賓頭盧。
病んでいるところと同じところをなでると治る。
そんな信仰を集めるようになり、人々の願いを受け止め続けた結果、今のような姿になった。
その痛ましい表情の奥には、愛情と優しさが満ち溢れている。

第5位 異常に痩せた仏像
 堺市 南通寺
 やせ仏
 (注) 画像は南通寺のやせ仏ではありません

片膝に両手を添え、物思いに沈んだ表情、異常に凹んだ腹、浮き出た肋骨。
なぜこんなに痩せこけているのだろう。
俗に痩せ仏と言われているこの仏像、一見修行中の苦行僧のようにも見えるのだが、そうではない。
五劫思惟といって成仏する前の阿弥陀仏を表しているという。

五劫:想像を絶するほど長い時間の事

それほどの長い時間考えを巡らせた姿だからこそ痩せているのだ。
富山県では同じような痩せ仏が22体も残されている。

その昔富山では、節談説教という法話が、盛んに行われていた。
節談説教というのは法話に抑揚をつけるもので、浪曲や落語のルーツで庶民にとって法話のお楽しみだ。
その中でも1番人気だったのは歎異抄にある一文。

阿弥陀様が何年も悩んでくださったのは、我々民衆1人1人のため。

この文言は泣かせどころのクライマックスでよく引用された。

その時、目に飛び込むように映し出されたのが骨と皮だけの痩せ仏。
長い間我らに代わって苦行をなされたのだ。
この時一同は涙したと言われています。

痩せ仏は云わば、キリスト教徒にとっての磔刑のイエス
世の苦しみを代わりに受け続けている聖なるお姿なのだ。

第4位 中に隠された裸体像
奈良 新薬師寺 景清地蔵
景清地蔵
左が中に隠れていた仏像 全長:190cm

薬師如来十二神将など約13もの国宝が祀られているこの名刹に摩訶不思議な仏像がある。
このお地蔵さまにはある秘密が隠されていた。
今から33年前(昭和59年)東京芸術大学に修復のために持ち込まれた景清地蔵。
構造を確認するためレントゲン撮影が行われた。

すると、中にもう1体入っていることが確認されただ。
映るはずのない股や脇が衣の中に隠れている。
なんとこのお地蔵様、中にある裸体像に木の衣が貼装されていることが判明した。

前代未聞の二重構造。

その姿を残すため、木の衣を全てはがし裸体像のレプリカに移した。
そうする事で2体を同時に拝めるようにした。

なぜこのようなお地蔵さまが作られたのか・・・。

裸体像の体内に残されていた700年前の願文にあった。

鎌倉時代興福寺にとても仲のいい僧侶の師弟がいた。
師匠の名は実尊、弟子は尊遍
2人の親密さは春日権現霊験記に描かれている。

同じ日、同じ夜に同じ神の使いが現れるという夢を見たと言いう。
そんなある日、師匠の実尊が他界。
悲しみに暮れる弟子の尊遍はあることを思いつく。

「裸体像に実尊様の法衣を着せるのじゃ、そうすればご供養になるはずじゃ」

裸体像を造り実尊の法衣を着せた。
更に尊遍は自分の死後も実尊さまのご供養が続くようにと木の衣を貼装した。
こうして仲良く並ぶ2体は師弟の強い絆を今に伝えている。

【番外編】
ぐるぐる巻に縛られたお地蔵様
東京 林泉寺 縛られ地蔵
  縛られ地蔵
Q なぜこのようなお姿になってしまったんでしょうか?

レギュラー陣の回答

・たむけんさん
このお地蔵さんははっちゃけた人で、裸像なんですけど、パッと両手を広げてあけっぴろげになるので周りの人が何してんねーんっていって隠すためにグルグル巻きになった。

チュートリアル徳井さん
軽いいたずらをされたので、軽く縛ったところ、大層およろこびになって、「もっともっと」とおっしゃるのでグルグル巻きになっておマゾう様・・・?

江川達也さん
女の人と姦淫(かんいん)した?
お地蔵さんの尖がった部分で遊んだ未亡人がいて・・・


皆さん、ふざけた回答をお地蔵さまに深く謝罪

A 目の前で盗人を見逃したから。
「盗人を見逃すとはあってはならない事、お地蔵さまも同罪」と大岡越前が縛らせたんだそうです。


ランキングに戻ります。

第3位 滑り落ちる赤ん坊
京都市 福田寺(ふくでんじ)


右脇から赤ん坊が滑り落ちてる女神像
  福田寺女神像

この仏像が作られたのは
6世紀の中国。
中国の皇帝、武帝が難産で苦しみ死んでいく女性が多い事を嘆き造らせたもの。
この時モチーフとしたのは釈迦の母・摩耶(マーヤ―)夫人。
6本の牙を持つ白い象が体内に入る夢を見てシッダールタ(釈迦)を受胎。
花園の沙羅双樹の花に手を伸ばした瞬間に産気づき、苦もなく右脇からシッダールタ(釈迦)を生んだとされている。
その時の姿を現しているのがこの女神像。
摩耶夫人像と呼ばれ、今も安産の守り神として信仰されている。

第2位 醜すぎる美女

京都東福寺の塔頭 
退耕庵(たいこうあん)

        小野小町百才像
         小野小町

髪の抜けた頭に、皺がよった醜い顔。
半開きになった口からは欠けた前歯がのぞいている。
骨と皮のあばらと萎んだ乳房をあらわにし、今にも倒れそうな体を杖で支えている。
実はこれ、ある有名な人物の像。

その正体は、小野小町
世界三大美女に数えられるほどの美貌を持ち、華やかな宮中で暮らし、歌人としても才能を発揮した帰来の美女がなぜこんな醜い姿になったのだろう。

平安時代の煌びやかな宮廷文化を象徴するヒロイン小野小町だが、意外な事に容貌を描いた絵画は残っていない。代わりに彼女がどれほど男性にモテたかを伝える仏像がある。
それは同じ退耕庵にある玉章(たまずさ)地蔵だ。
   玉章(たまずさ)地蔵
3mの堂々とした地蔵菩薩
実はこの地蔵の胎内に小野小町に送られたラブレターが封じられているといわれている。
美人で誉れ高い小野小町の元には数多くのラブレターが送られた。
その思いに応えられない事に罪悪感を覚えた彼女は、地蔵を造りその中にラブレターを入れ、色情の妄念を成仏させたのだ。

そんな稀代のモテ女、小野小町の心を動かした男がいた。
その男の名前は、深草の少将(ふかくさのしょうしょう)。
ある日小町は少将にこう告げた。

「100日間私の元に通ってくだされば、貴方の思いのままになりましょう」

それを聞いた少将は言われた通り、雨の日も風の日も雪の日も毎日、小町のもとに通い続けた。
小町も、内心は少将の通いを心待ちにし、カヤの実を糸でつなぎ日数を数えていました。

「あと少しじゃ・・・

そんな日々が続いた99日目の事。
疲労がたたった少将は、小町のもとに通う道中で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。

思い人の死に直面し、罪悪感に駆られた小町はその後、全ての求愛を断り失意のまま各地に放浪の旅に出た。

それから数十年

高野山の僧侶が卒塔婆(そとうば)の上に腰かけるひとりの老婆を見た。
ボロをまとい乱れた姿の老婆。
その出立ち、振る舞いを咎めた僧侶に老婆はこう言った。
小野小町のなれの果てだ」
しばらくは昔を懐かしむように語っていた小町だったが、突然狂乱状態になり「小町が許へ通おう」と叫び続けた。

その姿はまさに、深草の少将の怨霊が憑りついたものだった。
この時の小町の姿を写したのが前出の小野小町百才像。

百人一首には小野小町の詠んだ句が残されている。

    小野小町2

―花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに―

むなしく恋の思いにふけっている間に、私はすっかりこんな容貌になってしまった。

一見異様なこの像は、絶世の美女がたどった悲劇の人生と共に諸行無常を伝えている。

小野小町の像とされるものは他にもたくさん存在するが、晩年の姿ばかりで美しく造られたものはない。

 
第1位 もう一つのビリケン

神戸市 松尾稲荷神社
特徴的な釣り目、大きく笑ったような口、この像の名は通称ビリケン大黒様。

大阪通天閣ビリケン様によく似ていますが右手に小槌、左手に宝珠を持ち、俵の上に座るその姿はよく見ると違う。
なぜこんな異形のビリケン様が存在するのだろうか。

1908年(明治41年)アメリカ ミズーリ州の美術教師、フローレンス・プリッツはシカゴで行われるコンテストに出品するために作品を作った。これがビリケンの誕生だ!

     BlogPaint

見事優勝を飾ったビリケンは販売会社の手に渡り商品化された。
1909年に売り出されると半年で20万体を売り上げた。
その波はいち早く日本にも到達し、すぐに話題に。
次第に日本オリジナルの姿に変わっていく中、ビリケンさんに思いを馳せるひとりの男がいた。

客足が伸びず、人生に行き詰まっていた洋食屋の主人。
彼はあることを思いつきます。

ビリケンさんと大黒様を融合させるんや、そうしたら日本一ありがたいビリケンさんになるやろう」

そうして作られたのがビリケン大黒様
ビリケン大黒様

店頭に置いたところ、店は連日満員に。
かえってお客さんが入りづらくなったことから主人が神社に預けたと言う。
以来、松尾稲荷神社には、参拝者がどんどん増えました。
煙と撫でる人々の手によって真っ黒になったビリケン大黒。
いつしか福の神として神格化されました。
アメリカで誕生し、日本で神様となったビリケンさん。

実はこの神社にはもう1つビリケンさんにまつわる気になる物がある。
セイウチの牙に人の顔が彫られている。
   セイウチの牙のビリケンさん
   名前はベリケンだ。
ロシアの北方民族(ユピック)が魂を守ると信じて持ち歩いている守り神。

直接的なつながりは証明されていないが、見た目も名前もビリケンさんそっくりだ。
ベリケン、もしかしたらビリケンさんのルーツなのかも知れない。